あるがまま… サッカー・Newsまとめ

                           

横浜FC

お互い全盛期ではないものの、
横浜FCで共にプレーした中村俊輔とカズ…ふたりの絆



(出典 i.daily.jp)

追いかけたカズより先に引退となった中村俊輔の引き際


数え切れないほどの記録と記憶を残して、稀代のレフティーの異名を取ったMF中村俊輔(横浜FC)がスパイクを脱いだ。

現役引退の原因になった右足首に初めてメスを入れたのが4年前。2022年6月には2度目の手術を受けた44歳の元日本代表は、かつて横浜FCでチームメイトになった三浦知良の姿から受けた刺激を、前へ進むパワーに変えてきた。キングカズとの間で紡がれてきた知られざる絆を追った。

現役最後の一戦を前にして、俊輔はルーティーンのひとつをやめている。ロアッソ熊本のホームに乗り込んだ10月23日のJ2最終節。右足首へ痛み止めの注射を打つのをあえて見送ったのだ。 「もちろん痛いよ。コンドロイチンももう効かないからね。注射して、ごまかして、今日もロキソニンを飲んで、というのを4年間、ほぼ毎日だから」 40歳になった2018シーズンあたりから、黄金の左を支えてきた軸足、その右足首が限界に近づいてきた。大きな負荷と可動域を強いられ、悲鳴を上げ続けていた関節からは、2度の手術を経て距骨と軟骨が除去された。それでも痛みは消えない。 「でも、今日は注射を打ったなかった。右足首が麻痺しているのにそんなにバンバン打っていたら、おかしくなるからね」 ゲームキャプテンを託され、後半15分までプレーした熊本戦後の取材エリア。痛み止めの注射を打たなかった理由を明かした俊輔は、さらにこう続けた。 「だからカズさんは本当にすごいよね。そういうものは打たないし、多分、若いときからかなり意識していたんだろうね。強いよ。体も、メンタルも」 若い頃から体のケアを徹底し、注射や薬の類とは無縁のレジェンドの生き様に、最後の一戦を前にしてあやかったとうかがわせる言葉。55歳の今シーズンも現役でプレーするカズこと三浦知良の存在は俊輔に大きな影響を与えた。


■カズの隣にいた俊輔

2人は98年2月に、初めて同じチームで“共演”している。フランスワールドカップ出場を決め、カズがエースストライカーとして君臨していた日本代表合宿に、横浜マリノスで2年目を迎えていた19歳の俊輔が大抜擢されたときだった。

そして、クラブチームで初めて同じユニフォームに袖を通したのは19年7月。J1のジュビロ磐田で出場機会を失っていた俊輔が右足首痛からの捲土重来を期して横浜FCへ移籍。あえて自身初のJ2でのプレーを決めたときだった。

横浜市保土ケ谷区内にある練習場のロッカールーム。すでに横浜FCで15シーズン目を迎えていたカズと隣同士になった俊輔は、カズとのサッカー談義が日課になった。

「試合が近づいてくると、それこそ毎回のように『頼んだぞ』と言われるし、試合から帰ってきたらものすごく細かいところまでサッカーの話をする。あそこの場面はどうこう、とか絶対に言ってくる。ありがたいし、本当にすごいと思う」

当時のカズは日々の練習でアピールするも、ベンチ入りできる18人に選ばれず、リーグ戦を外から見つめる時間が多かった。当時の俊輔はさらにこう続けている。

「いつもメンバーに『入りたい、入りたい』と言って、めちゃくちゃ悔しがっていますからね。練習から絶対に手を抜かないし、選手としての価値というか、そういうのが全然違う。自分もカズさんの前では手を抜けないし、この人に自分のいいプレーを見てほしいと思えるし、それでも同じ立場の選手だし。不思議というか、唯一無二の存在ですね」

新天地を横浜FCへ求めた俊輔は、しばらくはベンチ入りもできない状況に直面した。この先はJ3への移籍か、それとも現役引退か。頭をもたげてきた危機感を、新たに立てた誓いで必死に打ち消していた。3年前のこんな言葉だ。

「ちょっとでもモチベーションを落としたらダメ。ずっと張り詰めさせてさえいれば、必ずどこかで引っかかる。絶対にあきらめずに、粘って、もがいていかないと」

自分を信じて、もがき苦しんでいく過程の尊さを教えてくれたのがカズだった。しかし、舞台をJ1に移した21シーズンまでの2年間、出場試合数、プレー時間ともに不本意な成績に終わった2人は、今シーズンから再び別々の道を歩み始めた。


■さりげなく教えてくれた移籍

22年1月中旬。キャンプ先からオンライン取材に応じた俊輔は、4部の日本フットボールリーグ(JFL)鈴鹿ポイントゲッターズへ期限付き移籍したカズへの偽らざる思いを明かしている。

「やっぱりカズさんがいないのは単純に寂しい。今年のキャンプを見ても、いつも先頭で走るとか、カズさんがやってきたことがすぐにわかるから」

率先してランニングを引っ張る姿だけではない。例えばパス交換でちょっとでもコースがずれると、大声で「ごめん」と謝るカズの姿に俊輔は何度も感銘を受けてきた。

「ほんのちょっとミスをしただけなんだけど、常に高い意識を持っているからそうやって謝ってくる。カズさんがこのチームに残してくれたものは個人個人の脳裏に焼きついているはずだけど、僕のなかではメンタル的なものの方が大きい。カズさんの練習への取り組み方やめちゃくちゃ高い熱量を大事にして、自分でも意識しながらやっています」

カズの移籍は背番号「11」にあやかって、今年1月11日午前11時11分に発表された。

俊輔はカズ本人から発表前に移籍を明かされている。年が明けて間もない1月6日か7日だったと俊輔は記憶している。21年末の段階で横浜FCとの契約を更新し、26年目のシーズンを再びJ2で戦うと決めていた俊輔は自主トレを行おうと、早朝の午前8時ごろに横浜FCの練習場へ到着した日だ。

「そうしたら自分よりも早く、カズさんも練習に来ていたんですよ」

練習の虫と自負する俊輔は、自分よりも早い時間帯に自主トレを行い、汗を流していたカズの姿に驚かずにはいられなかった。そして練習場を後にするカズと交わしたあいさつのなかで、すでにメディアで報じられていた鈴鹿への移籍を告げられた。

「報道通りのところへ行くかもしれない、と。シュンらしいプレーをして頑張れと。カズさんも頑張ってください、また一緒にやれたらいいですねと自分も言いました」

残念ながら再共演は果たせない約束となってしまった。

6月に右足首へ2度目のメスを入れた俊輔はシーズン中にピッチへ戻る目標を最後に掲げた。そして、いよいよ復帰が近づいていた10月9日。カズと再会を果たす。勝てばJ1復帰が決まる大分トリニータ戦が行われた横浜FCのホーム、ニッパツ三ツ沢球技場をカズが訪れた。東京・国立競技場での試合を終え、古巣の歓喜の瞬間を見届けようと足を運んだカズへ、俊輔は引退を打ち明けたのだ。


■リスペクトを胸に第2の人生へ

2人の絆の強さを感じさせるやり取りから2週間後。熊本とのラストマッチを終えた俊輔は「ネガティブな意味じゃないけど、死ぬ気でというか、いつやめてもいい覚悟でやってきた」と振り返りながら、こんな言葉をつけ加えるのも忘れなかった。

「でも、カズさんが近くにいると麻痺してくるからね。一緒にやってみな。そんなこと言っていられなくなるから。本当に弱音は吐かないし、引退とか辞めるとか、そんなのをちらつかせたらもう、ね。今年は違うチームになったけど、横浜FCに来てカズさんと一緒にやれたのは大きいよ。選手としての価値で、新しいものを見られたから」

カズと共有した時間を介して人生の宝物を得た、と声を弾ませる俊輔は、カズのパフォーマンスのなかでぜひとも見たいものがあると、3年前から語っていた。

「カズさんのダンス、見たくないですか。見たいでしょう。だって、オレが見たいもの」

ゴールを決めた後だけに解禁される“カズダンス”は、17年3月を最後に披露されていなかった。しかし、熊本戦から1週間後の10月30日。敵地で行われたFCティアモ枚方戦の後半40分に、鈴鹿が獲得したPKをカズがゴール右上へ豪快に突き刺した。

JFLにおける歴代最年長ゴール記録を、55歳246日と大幅に更新した直後。腰をくねらせ、軽やかにステップを踏みながら左手を股間のあたりにあて、右手の人さし指を空へ突きあげて笑顔で締める“カズダンス”が舞われた。

カズが待望の移籍後ゴールを決めた映像は、地上波のニュースで何度も報じられた。俊輔にも届いたはずの歓喜の舞いは、選択肢のひとつに指導者を思い描きながら、第2の人生を歩み始めたばかりの稀代のレフティーへの至福のエールとなった。

(出典:Forbes JAPAN)                


(出典 tokyo-sports.ismcdn.jp)

日本が生んだファンタジスタ・中村俊輔…
26年間お疲れ様でした!!
夢と希望と勇気を与えてくれてありがとう!!



(出典 www.football-zone.net)

中村俊輔、26年のプロキャリアに終止符 引退会見全文・Part1 「FKはPKと同じ感覚」「サッカーが好きで上手くなりたい」


「自分よりサッカーが好きな選手と会えたのは財産」

 J2横浜FCの元日本代表MF中村俊輔が11月10日、引退記者会見を実施した。26年におよぶプロキャリアに終止符を打った経緯、過去2度出場したワールドカップ(W杯)への思いなど、引退会見の全文をお届けする。

(冒頭の挨拶)
 明るく、楽しい時間にしたいと思うのでよろしくお願いします。

――引退決断後、心境の変化は?

 そこまでないですね。今、W杯があるということで早くリーグが終わり、チームは1か月くらい練習があるので参加させてもらって、練習試合にも出た。今後、引退という気持ちになると思うけど、仲間からはあの人来年もいるんじゃないかという感じになっている。もう少しやらせてもらっています。

――引退の決断経緯と、最初に相談された方は?

 30後半くらいからはいつでもできるようにというか、より悔いのないように、単年契約をこのチームともさせてもらってそういう気持ちでやっていた。今シーズンに入って足首の状態が良くなくなってそれから。相談したのはは家族であり、妻ですね。

――ここまではどんなサッカー人生だったのか?

 原動力は単純に自分の中から出てくる情熱、サッカーが好きで上手くなりたい。上に行くにしたがって似たような選手が集まる。カズ(三浦知良)さんとやると思わなかった。自分よりサッカーが好きな選手と会えたのは財産。日本代表のためにやっていたので、そういう仲間たち、メッセージをくれた選手たち。(川口)能活さんは若い時にボールを受けてくれて、同じパーソナルトレーナーだったのでジムで汗水流して。そういう人たちに囲まれたのは大きかった。

――代名詞のフリーキックへのこだわり、思いは?

 それだけって言われるのが嫌なので、意識したのはプロに入ってから。それまではゲームを支配する力、ドリブル、パス、スルーパスのちょっとしたおまけのつもりだったけど、それがキック、フリーキックが残ったのは不思議な感じだけど、やっていて良かったなと。こだわりは、PKと同じくらいの感覚で決めるんだという意識はある。蹴ったら必ず決まるという状況をチームメイトに見せて信頼してもらう。それはキックだけじゃなく普段のプレーもだけど、それはこだわりだと思う。


――2度経験したW杯、自身のキャリアへの影響は?

 やっぱり日本の代表としてW杯に出るのは目標だった。誇りですね。結果、両大会とも結果を出せずに終わってしまったけど、自分の力のなさを気づく場所、時があったのでまた次に向上意欲を持てるというか、目標を立て直せるというのがもしかしたら自分のサッカー人生の繰り返しで、良いこともあれば挫折もある。そのたびにちょっとずつ上に上がれたのかなと。

――カタールW杯に出場する日本代表へのエール

 本番までに、大会中もそうだけど、大きな怪我はしないで頑張って欲しい。僕らの前の先輩たちがW杯へ行けなかったり、カズさんのドーハだったり、そういうのを見て次の世代、日本のために頑張ってもらえれば。

(出典:FOOTBALL ZONE)                


(出典 sakanowa.jp)

中村俊輔、26年のプロキャリアに終止符 引退会見全文・Part2 「マツさんだったらと、考えるようになった」

「自分にしてくれたこと、支えてくれたことをやることで恩返しになる」

――印象に残るゲームは?

 松田(直樹)選手が亡くなって最初の試合が(柏)レイソル戦。ボールも、足も地に付いていない感じでやって、あの悲しい感じでやったのは1試合だけですね。マツさんだったら今、何を考えているかなとか、こういう状況でどうしてるかなとか、考えるようになった。僕を変えようとしてくれた人なので。残念だったんですけど、次に進まなければいけないので、そういう思いでやっていました。

――次は指導者を目指すとされているが、現時点でのビジョンは?

(セルティック時代の)ストラカン監督もそうだけど、小学校の時から教わった監督や指導者が自分にしてくれたこと、支えてくれたことを自分がやることで、少しでも恩返しになるかなと。

――キャリアで最も胸を張れること、誇れることは?

 高校の時に桐光学園のこともあってサッカーノートを書くようになって、中期、長期と目標を書いていた。それをどんどん目標を越えて叶えていって、そうなろうという気持ちは強くなかったけど代表で10番を付けてW杯で。目標に向けて努力できたことじゃないかと思う。

――現役最後の試合を終えてからも、練習参加している狙いは?

「あの人スパイク脱がないな」っていう雰囲気になっていたけど、練習があるならやりたい。1月1日まで横浜FCとの選手契約があるのでやらせてもらっているけど、この時期は来季に向けてとか、休み過ぎてもよくないというのもあってやっているので、最後に皆と楽しくサッカーを、ボールを蹴れたら良いなと思って。

――次の指導者としての目標は?

 今はないですね、こうなりたいより、こうなりたくないというほうが多い。選手の時にそういう場面を見てきたりすると、今のところは自分の経験上でしかないのでこれからはゼロで皆さんの経験を吸収して作り上げていくものだと思う。柔軟にやっていきたい。

――セルティックの時に日本人がどれだけできるか自分は実験台だと。何を残せたと思うか?

 そう言ってました? 言ってましたね。俺はこういうプレーヤーだっていうだけでなく、こうやったらこうなのかというあえて悪いほうを通ったりとか。結果として、自分の良い結果が出なくても選手やチームメイト、指導者としての引き出しや財産になることもあると思うので悔いはないし、良かったと思う。その結果はこれから指導者として伝えていければ。代表の時に長友(佑都)もすごく聞いてきて、海外はどうですか、どのタイミングで、(言葉を)喋れたほうが良いですかとか、貪欲な選手には話したけど、そうじゃない選手にもこれからは時間もあるのでそうしていければなと。
(出典:FOOTBALL ZONE)                



(出典 www.nikkansports.com)

中村俊輔、26年のプロキャリアに終止符 引退会見全文・Part3 「名波さんは兄貴的存在」「新しい自分が出た」

「三ツ沢でプレーできて三ツ沢で終われたので本当に運が良い」

――理想の監督像は?

 選手の時はあったけど、それもあまり作らないほうが良いのかなと。自分の感覚や物差しでやると伝わらないとか、良いことがないかもしれないと。演じないといけないこともあるだろうし、自分が答えが分かっているからこそ教え過ぎだといわれることもあった。自分で気づかせるのも大事。まだまだ勉強が必要。作らないようにしている。

――魅せるプレーという意味で、注目する日本人選手は?

 小野伸二ですね(笑)。そこは変わらない。今の時代という言い方は好きじゃないけど、中央は360度のプレッシャーが来る。でも、そこのポジションに凄い選手が出て必要になることもあると思う。そういう人を潰さないようにしたい。伸二がまだやるので、すごく期待しています

――ジュビロ磐田の時に印象に残っていることは?

 当時はマリノスをどうするかという時に名波(浩)さんがすぐに声を掛けてくれた。アントラーズ戦のアウェーでゴールを決めた時に名波さんのところにいって皆で抱き合った時。選手で初めて監督のところに駆け寄った。名波さんは求心力があって兄貴的存在でサッカーをよく知っている。ああなりますね。あの瞬間は新しい自分が出た。嬉しかった。クリアボールでしたね、アウトサイドにかけて。クリアと思っていても松浦(拓弥)はずっと俺のパスと言って、そのこだわりは分からないけど、曽ヶ端(準)選手を相手に良かったですね。

――静岡での2年半について

 感謝ですね、僕は通いで2時間半から3時間をかけて東名を走っていっていたので、近くの食堂の方と仲良くなって良い思い出ですね。地元の方もファンも良い人が多い。素晴らしい環境でやれたのでありがたかった。今シーズンは残念でしたけど、すぐに上がって来られると思うし、上がってこないといけないチームだと思うので頑張って欲しい。

――横浜の地に対する思いは?

 僕は深園というクラブチームで若林先生の下で初めて、小学5年生で横浜市の選抜に選ばれて、6年生主体なのに5年生で選ばれた。その時の堀内会長が周りの意見を聞かずに年齢は関係ないと入れてくれた。初めて親と行った三ツ沢はスタンドがコンクリートだけ、日産対読売、木村和司さんとラモスさん、カズさんがいて、虜になってここでやりたいと。今、三ツ沢でプレーできて三ツ沢で終われたので本当に運が良い。良かったなと思いますね。

(出典:FOOTBALL ZONE)                 


(出典 サッカーダイジェストWeb)

中村俊輔、26年のプロキャリアに終止符 引退会見全文・Part4 「長友の姿勢には学ぶことがたくさんあった」

「代表の時にサンドニで0-5で負けて、このままじゃ置いていかれると気づいた」

――サッカーとは?

 生きがいですね、すべてですね。それに尽きると思います。

――凄いなと思った選手や後輩

 先輩は井原(正巳)さんと川口(能活)さん、マリノスでパッと新人で入ってすぐに気づいた。良くしてくれたし、プロってこうなんだと。しかも代表の上まで行くのはこうなんだと毎日見られたのは大きかった。あとはボンバー、中澤(佑二)さんですね。年下は、うーん、長友(佑都)さんですね。ビッグクラブに行く階段というのが、最初は大学生で太鼓を叩いていたのに強化指定でFC東京、そしてイタリアに行ってインテル、年数に対する成長の仕方が興味があって、よくそれについて話した。その向上意欲や私生活からのサッカーへの姿勢には学ぶことがたくさんあった。彼のことは尊敬できますね。

――ターニングポイントになった移籍は?

 イタリアに行った時と、マリノスを出た時ですね。イタリアに行く時は、日本で出なきゃと焦るくらいだった。当時は世界最高峰だったセリエAに行くのを焦るくらいだった。本場のサッカーに飛び込んだのは、良かったと思いますね。扉をようやく開けられた。代表の時にサンドニで0-5で負けて、このままじゃ置いていかれると気づいたし、やっとこの舞台でやれるというので、すごく光が見えた感じだった。

――40歳を目途に引退と話していたこともあったが、44歳での引退となった

 本当に周りの方々の支え、トレーナー、病院の先生は手術や注射など足首の状態が悪いなかを試行錯誤しながら、相談しながらどうするかと。それがあって長くできたと思う。今はやりつくしたというのがあったけど、まだ何かあるという気持ちでいられたのが大きいと思う。

――現役を終わって最初のオフはどうするか?

 現役の時は1週間くらいしか休まない。でも、変わらないと思う。身体を動かしちゃうと思う。仲間とサッカーをするだろうし、家族と旅行も毎年するようにしている。あまり変わらないと思う。来シーズンは今のところ決まっていない状態ですね。でも、サッカーに携わっていきたいと思う。


(中村俊輔からメッセージ)

 今まで所属してきた横浜マリノス、横浜F・マリノス、レッジーナ、セルティック、エスパニョール、ジュビロ磐田、横浜FCの選手、関係者の方々ありがとうございました。マスコミの方々もありがとうございました。日本サッカー協会のおかげで代表で良い経験もさせてもらいました。ありがとうございました。ファン、サポーターの方々がいて自分はここまで成長できたと思うので26年間一緒に戦って下さり、ありがとうございました。やり尽くしたという気持ち、すがすがしい気持ちで終われたので自分でもホッとした、良かったという気持ちです。26年間ありがとうございました。
(出典:FOOTBALL ZONE)                



(出典 毎日新聞)


こちらもおすすめ!

このページのトップヘ