あるがまま… サッカー・Newsまとめ

                           

Jリーグ


(出典 cdn.curation.jleague.jp)

Jリーグが全クラブのホーム開幕戦を発表! 王者・横浜FMは川崎Fとの開幕戦後に浦和とホーム開幕戦、J2山形は第5節までホームゲームお預け


Jリーグは23日、2023シーズンのJリーグ開幕カードを発表。公式YouTubeチャンネルでは、開幕カードのみが発表されたが、各チームのホーム開幕カードも発表された。
全60チームで行われる今季のJリーグ。J1は18チーム、J2は22チーム、J3は20チームで戦われる。

開幕戦は明治安田生命J1リーグが2月17日(金)、明治安田生命J2リーグが2月18日(土)、明治安田生命J3リーグが3月4日(土)に行われることとなる。

J1では王者の横浜F・マリノスが3連覇を逃した川崎フロンターレと対戦。2023シーズンのJリーグの開幕ゲームとなる2月17日(金)に行われるが、川崎Fのホームで開催。横浜FMのホーム開幕戦は第2節で浦和レッズと対戦する。

また昇格組でアウェイスタートとなるアルビレックス新潟は、第3節で北海道コンサドーレ札幌を迎えてホーム開幕戦を戦う。なお、浦和も第3節がホーム開幕戦となり、相手はセレッソ大阪に決定した。

J2では、昇格組の藤枝MYFCが第2節でV・ファーレン長崎を迎えてホーム開幕戦。また、ツエーゲン金沢は第3節でFC町田ゼルビアと、ブラウブリッツ秋田は第4節でジェフユナイテッド千葉と、モンテディオ山形は第5節でFC町田ゼルビアと対戦する。

J3ではJFLから昇格したFC大阪が第3節でホーム開幕戦を迎え、いわてグルージャ盛岡と対戦する。

なお、1月20日(金)の17時にJ1、J2、J3の8月までの開催試合の開催日、スタジアム、対戦カード、キックオフ時間が発表。9月以降の試合については、開催日(候補日)と対戦カード、スタジアムが発表される。

【明治安田生命J1リーグ】
◆開幕節
▽2月17日(金)
川崎フロンターレ vs 横浜F・マリノス

▽2月18日(土) or 19日(日)
柏レイソル vs ガンバ大阪 FC東京 vs 浦和レッズ 横浜FC vs 名古屋グランパス 京都サンガF.C. vs 鹿島アントラーズ セレッソ大阪 vs アルビレックス新潟 ヴィッセル神戸 vs アビスパ福岡 サンフレッチェ広島 vs 北海道コンサドーレ札幌 サガン鳥栖 vs 湘南ベルマーレ

◆第2節
▽2月24日(金)
湘南ベルマーレ vs 横浜FC

▽2月25日(土) or 26日(日)
北海道コンサドーレ札幌 vs ヴィッセル神戸
鹿島アントラーズ vs 川崎フロンターレ
横浜F・マリノス vs 浦和レッズ
名古屋グランパス vs 京都サンガF.C.
ガンバ大阪 vs サガン鳥栖
アビスパ福岡 vs セレッソ大阪

◆第3節
▽3月4日(土) or 5日(日)
浦和レッズ vs セレッソ大阪
アルビレックス新潟 vs 北海道コンサドーレ札幌


【明治安田生命J2リーグ】
◆開幕節
▽2月18日(土) or 19日(日)
いわきFC vs 藤枝MYFC
栃木SC vs ロアッソ熊本
ザスパクサツ群馬 vs ブラウブリッツ秋田
東京ヴェルディ vs ツエーゲン金沢
FC町田ゼルビア vs ベガルタ仙台
ヴァンフォーレ甲府 vs モンテディオ山形
清水エスパルス vs 水戸ホーリーホック
ジュビロ磐田 vs ファジアーノ岡山
レノファ山口FC vs 大宮アルディージャ
徳島ヴォルティス vs 大分トリニータ
V・ファーレン長崎 vs ジェフユナイテッド千葉

◆第2節
▽2月25日(土) or 26日(日)
ベガルタ仙台 vs 栃木SC
水戸ホーリーホック vs いわきFC
大宮アルディージャ vs ツエーゲン金沢
ジェフユナイテッド千葉 vs モンテディオ山形
藤枝MYFC vs V・ファーレン長崎
ファジアーノ岡山 vs 清水エスパルス
ロアッソ熊本 vs ブラウブリッツ秋田
大分トリニータ vs 東京ヴェルディ

◆第3節
▽3月4日(土) or 5日(日)
ツエーゲン金沢 vs FC町田ゼルビア

◆第4節
▽3月11日(土) or 12日(日)
ブラウブリッツ秋田 vs ジェフユナイテッド千葉

◆第5節
▽3月18日(土) or 19日(日)
モンテディオ山形 vs FC町田ゼルビア

【明治安田生命J3リーグ】
◆開幕節
▽3月4日(土) or 5日(日)
Y.S.C.C.横浜 vs カターレ富山
SC相模原 vs ガイナーレ鳥取
奈良クラブ vs 松本山雅FC
カマタマーレ讃岐 vs アスルクラロ沼津
愛媛FC vs いわてグルージャ盛岡
FC今治 vs 福島ユナイテッドFC
ギラヴァンツ北九州 vs FC岐阜
鹿児島ユナイテッドFC vs FC大阪
FC琉球 vs ヴァンラーレ八戸
テゲバジャーロ宮崎 vs AC長野パルセイロ

◆第2節
▽3月11日(土) or 12日(日)
アスルクラロ沼津 vs カターレ富山
FC岐阜 vs 松本山雅FC

◆第3節
▽3月18日(土) or 19日(日)
福島ユナイテッドFC vs テゲバジャーロ宮崎
AC長野パルセイロ vs 奈良クラブ
カターレ富山 vs ギラヴァンツ北九州
FC大阪 vs いわてグルージャ盛岡
ガイナーレ鳥取 vs 愛媛FC

◆第4節
▽3月25日(土) or 26日(日)
ヴァンラーレ八戸 vs FC岐阜
いわてグルージャ盛岡 vs アスルクラロ沼津
松本山雅FC vs テゲバジャーロ宮崎

(出典:超WORLDサッカー!)            
カタールW杯 日本代表躍進のような盛り上がりをJリーグでも

(出典 pbs.twimg.com)

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(出典 football-emblem.com)

なぜJリーグはJ1、J2、J3の20チーム統一とルヴァン杯の完全トーナメント方式化を決めたのか…代表課題のPK戦増加の副産物


Jリーグは20日に開催した理事会で、J1からJ3までの各カテゴリーのクラブ数を、2024シーズンから「20」で統一する構造改革を決めた。同時にYBCルヴァンカップの大会方式も、J1・J2・J3の全60クラブが参加するノックアウト方式へ変更。野々村芳和チェアマン(50)は、増えると予想されるPK戦に関して「慣れるという意味では大事な部分になる」と明言。カタールW杯で日本代表が涙をのんだPK戦が、真剣勝負の舞台でより多く実施される効果を強調した。

「現状の18よりも2つ増えて20となった方が、プラスが多い」

 日本代表が臨む国際親善試合でPK戦の導入を検討している日本サッカー協会(JFA)に続いて、Jリーグも主催する公式戦でPK戦を現状より多く実施する運びになった。

 対象となるのはYBCルヴァンカップ。もっとも、JFAと異なるのはPK戦ありきではなく、3月に就任した野々村チェアマンが掲げる成長戦略のもとで、2024シーズンからの実施が決まったJリーグの大幅な構造改革にもたらされる副次的な効果となる点だ。

 Jリーグはこの日に東京・文京区のJFAハウスで開催した理事会で、J1・J2・J3の各カテゴリーのクラブ数を、2024シーズンから「20」で統一するプランを正式に承認した。今シーズンはJ1とJ3が「18」で、J2が「22」でそれぞれ実施されていた。

 特にJ1に関しては2005シーズンから、コロナ禍における特例として「20」で行われた2021シーズンを除いて「18」がキープされてきた。なぜ「20」へ増やすのか。理事会後に記者会見した野々村チェアマンは、リーグ内における議論の結果だと説明した。

「ビジネス的な観点も含めた日本サッカー界の現状として、チーム数を減らすことのメリットはまだ出てこない。一方で現状維持ではなく20クラブに増やした場合、フットボール面でのメリットが若干プラスになる。加えてJリーグの価値を上げていくビジネス面でも、現状の18拠点よりも2つ増えて20拠点となった方が、プラスが多いのではないか、と」

 来シーズンからはFC大阪と奈良クラブがJFLから新規入会。J2から降格したいわてグルージャ盛岡、FC琉球を合わせたJ3のクラブ数が「20」となる状況も構造改革を後押しした。移行期間となる来シーズンはJ1の最下位だけがJ2へ降格し、J2の1位と2位、さらにJ1昇格プレーオフの勝者の3チームを昇格させて、すべてのカテゴリーを「20」で合わせる。

 しかし、ここである問題が頭をもたげてくる。

 20チーム制となったJ1は、リーグ戦だけで年間試合数が「4」増える。この状況でルヴァンカップを従来と同じくグループステージ、プレーオフステージ、準々決勝以降のノックアウトステージと実施していけばどうなるのか。JFAが主催する天皇杯や、前シーズンの上位クラブが臨むAFCチャンピオンズリーグ(ACL)も加わる過密日程が生じてしまう。

 実際にプレーする選手たちの心身にかかる負荷を考えたときに浮上してきたのが、ルヴァンカップの大会方式の大幅な変更だった。野々村チェアマンが続ける。

「試合数が増えるのはビジネス的にはいいかもしれないが、疲労も含めた選手たちのコンディション面で懸念があるのも当然ながらわかっている。そこでルヴァンカップの大会方式変更をセットにすれば、試合数が増える、という状況にはならなくなるんですね」

 今シーズンのルヴァンカップは、ACLに出場する4クラブを除いたJ1の14クラブに、前シーズンにJ2へ降格した2クラブを加えた16クラブでグループステージを実施。勝ち上がった4クラブにACL勢を加えた8クラブで、ノックアウトステージを戦った。

 これをJ1・J2・J3の全60クラブが参加するノックアウト方式へ全面的に変更する。 異なるカテゴリー間での対戦を創設し、J2・J3勢が成長していく上での起爆剤として活用。結果としてJリーグ全体の価値を向上させていく狙いがあるなかで、野々村チェアマンは「カップ戦が増えれば、必然的にPK戦が増える」と明言。さらにこう続けた。

「今回のW杯でも、PK戦についていろいろな議論がなされました。PK戦というのは選手にとって本当にストレスで、PK戦そのものがどうなのか、と僕自身は感じていますけど、何かがかかったゲームでPK戦をするのが、慣れるという意味では大事な部分になる」

 PK戦の末に日本がベスト8への扉を閉ざされたクロアチアとの決勝トーナメント1回戦は、公式記録上では引き分け扱いとなる。延長戦を含めた120分間を戦い終えても1-1で決着がつかず、次の準々決勝に進むチームを決める方法となるPK戦に突入した。しかし、森保ジャパンにとってPK戦は、初陣から通算62試合目にして初めての経験だった。

 現状だけを見れば、日本代表の大半はヨーロッパ組で構成されている。クロアチアとのPK戦でキッカーに立候補したのも、出番が回ってこなかった5番手のMF遠藤航(29、シュツットガルト)を含めて、全員がヨーロッパでプレーする選手たちだった。

 ただ、Jリーグをへてヨーロッパに新天地を求める流れが今後も続くと考えれば、公式戦であるルヴァンカップを勝ち抜くための緊張感とも戦うPK戦を経験する意味は大きい。だからこそ野々村チェアマンも、会見で「慣れる」という言葉を使ったのだろう。

 来シーズンはルヴァンカップも移行期間に位置づけられる。

 ACLが今シーズンまでの「春秋制」から、9月に開幕する「秋春制」へ移行する。これを受けて3月に開幕するグループステージにはACL出場権を得ている横浜F・マリノス、川崎フロンターレ、サンフレッチェ広島を含めたJ1の全18クラブと、J2へ降格する清水エスパルスとジュビロ磐田の計20チームが参加。4チームずつ5組に分かれてグループステージをまず戦う。

 その上で今シーズンまで実施されてきた、各組の1位と2位がたすき掛けで対戦するプレーオフステージを廃止。グループステージを勝ち上がった8クラブが準々決勝と準決勝をホーム&アウェイ方式で戦い、一発勝負で争われる決勝に臨む。

 そのなかでアウェイゴール方式も廃止される。

 2試合計180分間を終えて0-0以外の同スコアだった場合、アウェイで多くゴールを上げたクラブが勝ち上がるのがアウェイゴール方式となる。今シーズンでいえばセレッソ大阪と川崎が対峙した準々決勝は第1戦が1-1、第2戦が2-2で2戦合計3-3だったが、川崎のホーム等々力陸上競技場で行われた後者で2ゴールを奪ったセレッソが勝ち上がった。

「これはUEFA(ヨーロッパサッカー連盟)の方で、そういう決定をしているんですね。ホームゲームなのに守備的に戦い、相手にアウェイボールを与えない試合が横行していると。要はフットボール本来の魅力を損ねているのが、実はアウェイゴール方式なのではないかという議論がヨーロッパであり、ACLも廃止を決めたなかで、ならば日本もそうしよう、と」

 アウェイゴール方式を廃止した理由を、野々村チェアマンはこう説明した。同時に2戦を終えて同点だった場合には延長戦、そしてPK戦にまでもつれ込むケースが「増えると思う」とも明言。その上で元Jリーガーの立場から、PK戦が選手に与える影響にも言及している。

「PK戦は本当に大変で難しい。けれども、PK戦でなければ次に進むチームを決められない現行のルールのなかで、われわれがPK戦をどのように見ていくのかも必要だと思っています」

 未来をみすえた構造改革元年への移行期となる新シーズンは、J1とJ 2 が来年2月18日、J3が3月4日、ルヴァンカップが同8日にそれぞれ開幕。23日にはJリーグの公式YouTubeチャンネル内で、リーグ戦の各カテゴリーに臨む全クラブのホーム開幕カードが発表される。

(文責・藤江直人/スポーツライター)

(出典:RONSPO)                
早速PK強化プロジェクトの意味合いも含まれるのですね。
アウェーゴール方式は廃止の流れになってるんだ、知らなかった。



(出典 sakanowa.jp)

背番号3を受け継いで…松本山雅の象徴・田中隼磨40歳が天国の松田直樹に捧げた現役最終戦「マツさんなら絶対、お前情けねえなって…」


 J3・松本山雅の
田中隼磨(40歳)が今季を最後に22年間の現役生活に終止符を打った。横浜F・マリノス、名古屋グランパスではJリーグ制覇を経験し、オシム監督時代の日本代表にも選出。2014年からプレーした松本山雅では松田直樹の背番号「3」を受け継いだ。度重なるケガと手術を経て”不惑”までプレーを続けた熱血漢が引退表明後に心境を明かした。
                
 サッカーの神様は、粋な計らいをしたものだ。

 11月20日、松本山雅はホームのサンプロアルウィンにSC相模原を迎えた。1年でのJ2復帰がなくなり、失意のなかで迎えたJ3最終節。スコアレスで試合が進んでいくなか、残り時間わずかのところで田中隼磨がついに呼ばれた。

 40歳のベテランは試合の3日前に、プロ22年のキャリアに終止符を打つことを発表していた。ケガを抱える右ひざの状態が回復せず、2022年シーズンは一度もベンチ入りできていない。前年までさかのぼっても、開幕戦に先発出場したのみでベンチ入り自体が1年9カ月ぶりだった。

 いざピッチに立っても、プレーできない可能性があった。走れない可能性だってあった。右ひざから痛みが消えることなどなかったからだ。それでも「行けます!」と名波浩監督に伝え、来たるべき数分間のプレーに自分の集大成をぶつけようとした。

熱血漢らしいゲキアツなフィナーレ

 背番号3の登場に、雨のサンプロアルウィンが一気に盛り上がる。するとどうだ。交代から3分間、定位置の右サイドに入った田中は味方からのパスを中に持ち出し、左足でクロスを送る。もはや右足ではキックを放てないゆえの苦肉の策。ファーサイドに流れたそのボールの折り返しから、21歳の中山陸が決勝点となるゴールを挙げたのだ。チームメイトが次々に、田中に抱きついていく。

 動けないどころか、得点に絡んでチームに勝利をもたらすというちょっとした奇跡。地元のチームである松本山雅を全国区にしようとしてきた熱血漢らしいゲキアツなフィナーレであった。

「自分が勝たせるしかないっていう思いでピッチに入りました。確かにあまり動くことはできません。でも、ここまでサポーターと築き上げてきた絆がありますから、お互いの思いでスタジアムの雰囲気を変えられるんじゃないかって。

 何とか左足で蹴ったんですけど、軸足(右)のほうにビリッと電気が走るような感覚があったし、凄く痛かったのは事実です。でも魂を込めて、頼むっていう思いが、ああやってゴールにつながった。痛いをうれしさが超えていきました(笑)」

 右ひざのケガは、彼にとって代償であるとともに勲章でもあった。

 加入1年目の2014年シーズン、反町康治監督のもと「走る山雅」の象徴となった彼は5月に半月板を負傷したものの、その事実を隠したままシーズンを戦い抜いている。

「膝がぶっ壊れてもいいぐらいの覚悟がありましたから。俺たちはうまくないし、強くもない。昇格という目標に向けて中途半端な気持ちでは戦えない。だから自分もこれくらいのケガで負けるわけにはいかなかったんです」

松田直樹の背番号「3」を受け継いで

 クラブ初のJ1昇格を決めることになる11月1日のアウェー、アビスパ福岡戦も痛くて蹴れない右足の代わりに左足のロングキックが先制点を呼び込み、勝利を引き寄せている。

 慕っていた横浜F・マリノス時代の先輩、松田直樹が2011年8月に急性心筋梗塞で他界して空き番号になっていた背番号「3」を、松田の思いとともに受け継いだ。ユニフォームを脱いだ田中のアンダーシャツには背番号3とともに松田直樹の名前が記されていた。ピッチに突っ伏して、涙を流した。

 右ひざ半月板は松田の古傷でもあり、当時の田中も「これまでケガらしいケガなんてしたことがなかったのに、3番を背負ったらこれですからね。でもマツさんから与えられた試練なんだと感じました」と語っている。まさかずっと付き合わされるとは考えていなかっただろうが。

 慢性的な痛みはあっても、ピッチに立てないレベルでもない。16年に右眼裂孔原性網膜剥離を患って引退危機にさらされたことはあったが、ケガによる長期離脱は一度もなかった。

 入念なケアや事前準備によって患部への負担を極力抑えてきたとはいっても、限界はある。ついに悲鳴を上げることになるのが2020年シーズンだった。反町が退任してメンバーの入れ替えも進んでいたなか、ベテランの自分が先頭に立っていかなければならないと奮い立たせていたときに試合中に負傷して、復帰まで3カ月を要した。

「自分自身、後悔なんてまったくない」

 翌2021年5月には手術を実施する。右ひざの外側半月板損傷、軟骨損傷、右関節内遊離体、関節滑膜炎とダメージは広範囲に及んでいた。ここからラストゲームとなる相模原戦までピッチから遠ざかることになる。

「手術は2回、手術に近い処置を含めれば3回になりますかね。PRP療法も10回以上やってきたし、いいと聞いた治療法も日本中回って全部やってきました。いろんなお医者さんにも診ていただきました。やれることはすべてやってきたつもりです。

 どの先生からも最初にひざを痛めた段階でしっかりと処置をしておけば、ここまでになる可能性は低かったとは言われます。でも自分自身、後悔なんてまったくないですよ。あの年(2014年)僕が途中で離脱してしまったら……と思うと。覚悟を持ってここに来たわけだから、それをしっかり示す意味でも(ケガで)抜けるなんて、まったく考えていませんでしたから」

 覚悟ーー。

 レギュラーを張っていた名古屋グランパスから契約満了を告げられ、他のJ1クラブから誘いがあったにもかかわらず、選択肢はJFLからJ2に昇格して3年目となる山雅の一択だった。当時は練習場を転々としていて、クラブハウスもない。練習着やユニフォームの洗濯も自分でやらなければならないという厳しい環境も、前向きに受け入れた。

「ボール回しの練習一つとっても、回されているほうがヘラヘラしてしまっていては試合じゃ絶対に勝てない。ミニゲームにしたってそう。敢えて中心選手に“そんなんじゃダメだよ”ってきつく言ったことも結構あります。もちろんそこは信頼関係があるからだし、何よりも言った張本人が一番やらないといけない。日々そうやっていたら、もし試合で負けたってまだ納得がいく。だから毎日が勝負でしたよね」

 J1で300試合以上を戦い、横浜F・マリノスでもグランパスでもリーグ制覇してきた。自ら率先してきついことに取り組み、チーム内の求心力を高めていく。ユニフォームを汚すまで泥臭く走り、食らいついていく魂のサッカー。田中は反町が標榜するスタイルを先頭に立って実践し、周りを巻き込んでいった。ケガだからといって簡単に離れるわけにはいかない理由があったのだ。だからこその“勲章”――。

現役引退を決め、名波監督に伝えると…

 やっとの思いで全体練習に合流できたのが、10月30日に行なわれる長野パルセイロとの”信州ダービー”の週だった。J2昇格に向けて少しでも力になりたいという思いで、大一番に間に合わせようとした。患部に痛み止めの注射を打ち、紅白戦に出場できるまでのコンディションに持っていった。

 だが、久しぶりに紅白戦でプレーした翌日、リバウンドが出てしまう。「何とか一歩踏み出して反応を見ようと思った」チャレンジだったが、私生活でも階段が上り下りできないほどになってしまった。ベッドからも起き上がれず、体を動かすことすらままならなかった。

 右ひざさえよくなればまだまだやれるという思いがある一方で、2年間ほぼチームに貢献できていない現実と向き合った。覚悟は固まった。チームがアウェーでテゲバジャーロ宮崎に敗れた11月13日の夜に現役引退を決め、まずは家族に伝えた。クラブ、名波監督、そしてチームメイトと順に伝えていくなかで、指揮官からは「最後、少しの時間であってもお前を起用する」と言ってもらえた。

 松田の家族にも、事前に引退を報告していた。「マツさんに背番号を戻します」と伝えると、姉・真紀さんからこう言葉が返ってきた。

「松本山雅の背番号3は、隼磨くんの番号。ここまで背負ってくれてありがとう。本当に感謝しています」

 感謝はむしろ背負わせてもらった自分のほう。ありがたい言葉ではあった。ただJ1どころかJ3でくすぶるチーム状況には、天国の松田も納得していないと思えた。

天国の松田直樹に捧げる現役最終戦

「マツさんなら絶対“隼磨、お前情けねえな”って言うはず。俺の番号、つけるなよって、そんな感じじゃないですかね」

 天国から松田も見ている最終戦に出て、ファン、サポーターに自分がプレーする姿を見せる。自分が勝たせる。それが現役最後の目標になった。

 毎日、痛み止めの注射を打ち、練習もチームに合流しないで別調整を続けた。試合前日の最後に行なわれたファニーゲームにだけ加わり、動かなくていいフリーマンの設定でやらせてもらったが、怖くて動くことがほとんど出来なかった。神経質になるほどに注意を払ったことで、幸運にもリバウンドは出なかった。

 試合当日、ウォーミングアップ時にサンプロアルウィンのピッチから久しぶりにスタンドの景色を眺めることができた。感慨深い気持ちが、アドレナリンに変換される。しかしここで反動があっては、ここまでのことが水泡に帰すかもしれない。自制しつつゆっくりと体を動かし、闘志だけはメラメラと燃やしていた。

 試合前、ハーフタイムにも注射を打ち、痛み止めの薬も飲んだ。“そのとき”を待って、残り3分間に自分のすべてをぶつけた。

 決勝ゴールにつながった魂のクロス。

 チームメイトにも、ファン、サポーターにもしっかりと自分の思いを届けることができた。

 試合後に行なわれた引退セレモニー。

 夕方になって気温も10度を下回るというのに、田中はベンチコートも着ず、背番号3のユニフォーム姿でファン、サポーターに引退の報告をした。時折、言葉を詰まらせ、涙をこらえながら別れを告げた。

「あの瞬間まで、引退って言いたくなかった」

 そのときの心情を尋ねると、少し間を置いてから静かに口を開いた。

「スタンドに挨拶するあの瞬間まで、引退って言いたくなかった。この日、この瞬間が来てほしくないってずっと思っていましたから。40歳になったとはいっても、自主トレに参加させてもらっているカズさんは50代なわけですし、もっと長くここでプレーするつもりでした。右ひざのケガに悔いはないですけど、チームバスでスタジアムに移動するときも、これで最後かって思ったし、ピッチに入るときだってそう思ったし、引退を伝えた後、もう本当にこれで最後なんだなって思うと、感情としてはもうたまらなかった。離れたくないのに、離れなきゃいけないんですから」

 体は思うように走れなくなっても、ひたむきに闘うマインドだけは最後の最後まで走らせた。田中隼磨は、最後の最後まで松本山雅の象徴であり続けた。


(出典:Number Web)


(出典 assets.goal.com)

「俺にとってナンバーワンだった」引退の田中隼磨にピクシーが電話で伝えたこと…支えになったオシムの言葉「休みから学ぶものはない」


 J3・松本山雅の田中隼磨(40歳)が今季を最後に22年間の現役生活に終止符を打った。横浜F・マリノス、名古屋グランパスではJリーグ制覇を経験し、オシム監督時代の日本代表にも選出。2014年からプレーした松本山雅では松田直樹の背番号「3」を受け継いだ。度重なるケガと手術を経て”不惑”までプレーを続けた熱血漢がプロキャリアを振り返り、影響を与えた3人の恩師について語った。

ピクシーからの電話

 現役引退を表明した田中隼磨のもとに、海外から一本の電話が入った。カタールワールドカップを直前に控えたセルビア代表監督のドラガン・ストイコビッチからだった。22年に及ぶプロキャリアに終止符を打つと聞いて、大会前にもかかわらずスマートフォンを鳴らしてくれた。

 ひとしきり労いの言葉を掛けてくれた後に、ピクシーはこう言ったという。

「お前のファイティングスピリットは俺にとってナンバーワンだった」

 嬉しすぎて、涙が飛び出そうになった。と同時に、「それ、もっと早く言ってくださいよ」と心のなかでつぶやいた。

 横浜F・マリノスでレギュラーを張っていた彼が名古屋グランパスに移籍したのが2009年シーズン。実はストイコビッチが古巣の監督に就任した1年目の2008年からオファーをもらっており、2年越しのラブコールに応えた形での移籍であった。何より田中には2004年のリーグ優勝経験があったため、強者になるための化学反応を期待されていた。

「岡田(武史)さんのもとで、勝者のメンタリティーとは何たるか、そして個の集団がピッチ上でまとまるにはどうしたらいいかっていうのを学んだし、先輩たちからも教わった。グランパスに入ってみて、もちろん良い部分もたくさんあったんですけど、正直これでは優勝は難しいって思ったんです。選手同士でもっともっと要求していく必要があったので、僕も強く要求しましたよ。優勝するための言動をしようと思いました」

 浮いた存在になったとしても別に構わない。化学反応を起こせないようであれば、自分がここにやって来た意味がないと考えていた。

 南アフリカワールドカップイヤーとなる翌2010年には浦和レッズから田中マルクス闘莉王が加入。チームは首位を走り、不動の右サイドバックもフル回転してクラブ初のJ1制覇に大きく貢献する。

ピクシーからは怒られた記憶しかないが…

 三顧の礼で迎えられたはずなのに、ピクシーからは常に怒られた。いや、もはやその記憶しかないくらいだ。

「ハーフタイムに“ハユマ、チェンジフォーミー”ですからね。優勝を決めた試合ですら“何やってんだ。もっといいクロスを上げろ”と言われたくらい。闘莉王やナラさん(楢崎正剛)たちは褒められるのに、そういうときに限って俺の名前は出てこない(笑)。だからあの人を絶対に認めさせようと、何クソという思いで頑張れたところもありました」

 怒られてばかりなのだが、スターティングメンバーには必ず入った。ターンオーバーでメンバーを入れ替えても、田中は代わっていない。

 評価してもらっているのか、それともそうじゃないのか、指揮官の真意をつかめないでいた。認めさせてやる、という一心がピッチ上のモチベーションを掻き立てていたのは疑いもなかった。

「俺のチームでお前が必要だった」

 13年シーズン限りでピクシーの退任が決まると、34試合すべての試合に先発出場した田中もクラブから契約満了を告げられた。まったく予想していなかっただけに、大きなショックを受けた。

 退団を指揮官に報告すると、初めて見るくらいの優しげな表情を浮かべていた。

「あのときのことは今でもよく覚えています。ピクシーは“俺がつくるチームにおいてお前が必要だった。この5年間、フィールドプレーヤーでお前が一番試合に出ている。それが答えだ。だから誰よりも厳しく接したし、厳しく要求もした。お前はそこに応えてくれたし、ピッチで返してくれた”と。本当は認めてくれていたんだなって感じると、(契約満了は)悔しかったけど、頑張ってきて良かったなとも思えました」

 なぜここまでの強い気持ちを持って、折れることなくピクシーを認めさせられたのか。

支えになったオシムの言葉

 実はイビチャ・オシムからの言葉が支えになっていた。ドイツワールドカップ後に就任した彼の初陣となる国際親善試合、トリニダード・トバゴ戦(2006年8月9日)のメンバーに選ばれた。田中にとって初のA代表。オシムはまず13人を選び、残りは追加招集で選んでいくという斬新な手法を取った。スタートする「オシム殿の13人」に入れたことは誇りだったものの、代表初キャップとなったトリニダード・トバゴ戦以降は出番が訪れなかった。翌月のアジアカップ予選、アウェーのイエメン戦。このときもピッチには立てなかったが、オシムから呼ばれて言葉を掛けられている。

「今までやってきたことを変わらず続けてほしい。たとえ試合に出なくても、どんな言動をしているかは見ているつもりだ。今、出番はないかもしれないが、今の姿勢を続けていくことが大切なんだ」

 オシムは自分の姿勢を買ってくれていた。これまでやってきたことは間違いじゃなかったんだと確信を持てた。心身における無尽蔵のタフネスは日々のトレーニングから生み出される。2007年に入ってから日本代表に定着することはなかったものの、走り抜く、戦い抜くための心身の準備を変わらずやっていけるだけの決心がついた。F・マリノスでもグランパスでも、そして2014年に移籍した松本山雅でも。確信を持つことができたから、周りにもはっきりと伝えられる。揺らぐことのない自分の軸を固められた一言にもなった。

「心が折れそうになるくらい厳しく言われましたよ」

 休みから学ぶものはない、と語ったのはそのオシムであった。

 まさに同感だった。オフでもベタ休みはしない。サッカーに対する真摯すぎるまでの姿勢は2001年にユースから昇格したF・マリノスの先輩たちの影響が多分にあった。

「だって(トップに)上がったとき、日本代表クラスがいっぱいいるこのチームのなかで生き抜いていくには、必死にやっていくほかなかった。特に(川口)能活さんとシュンさん(中村俊輔)は凄かった。サッカーだけに生活のすべてを注いでいましたから。あの人たちがそれくらいやっているのに、自分がそれを下回っていたらどうしようもない。プレーのことでも能活さん、シュンさん、そしてマツさん(松田直樹)たちには心が折れそうになるくらい厳しく言われましたよ。それも僕には大きなモチベーションになりました」

 引退を決めると、律儀な彼らしく川口、中村ら先輩たちにも「みなさんのおかげでここまでやれました」と連絡を入れた。

反町監督から「お前には一番感謝しなきゃ…」

 そして田中にとって、もう一人恩師と言うべき存在の指揮官がいる。松本山雅を2度、J2からJ1に昇格させ、ひたむきに闘うスタイルを築き上げた反町康治である。ピクシーとの5年間をしのぐ6年もの間、反町のもとで戦ってきた。キャリアのなかで一番長く過ごした監督だった。
 2019年シーズンを最後に退任する際、田中は反町のもとを訪れて直接感謝の言葉を伝えている。深々と頭を下げる田中に、反町はこう返したという。

「俺のほうこそ感謝している。いや、お前には一番感謝しなきゃいけないのかもしれない」

 思いがけない言葉だった。

 走れ、闘え、あきらめんな。反町の教えを先頭に立ってピッチで具現化した自負はあったものの、そんなふうに思ってくれているとは考えもしなかったからだ。

 いや、それで良かった。ピクシーの接し方から学んだことでもあった。起用がすべての答え。日々のトレーニングを精いっぱいやって、評価されたら試合に出る権利を与えられる。プレーをする機会を与えられたら、課せられたことを全力でやる。それを繰り返していくだけーー。       

「自分のスタイルとして、自分がどんなサッカーをしたいかとか、自分の理想なんかはどうでもいい。それは自分が将来監督になってから表現すれば良い。監督がどんなサッカーをしたいか、チームにとって自分の役割とは何か。岡田さんのときもピクシーのときも、そしてソリさんのときもそうです。そこを理解して一生懸命やるだけだし、チームのためにと思ってやってきたつもりです」

 誰からも認められ、誰からも愛された田中隼磨の22年間。それはすべてを良い出会いにしてきた対価でもあった。


(出典:Number Web)
ピクシーがNo.1と認めた田中隼磨のファイティングスピリット!

(出典 number.ismcdn.jp)

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なぜ”W杯戦士”谷口彰悟は31歳にして川崎Fを退団し海外挑戦を決断したのか…カタール強豪クラブへの移籍有力


 J1の川崎フロンターレは19日、FIFAワールドカップ・カタール大会に出場した日本代表DF谷口彰悟(31)の退団が決まったと発表した。谷口は筑波大から川崎入りした2014シーズンから最終ラインに君臨するとともに、2020シーズンからはキャプテンを拝命。川崎は4度のリーグ優勝に貢献した大黒柱との契約延長に努めてきたが、海外でのプレーを希望する谷口の意向が最終的に尊重された。谷口はW杯期間中に、カタール・スターズリーグのアル・ラーヤン移籍が報じられている。

筑波大から川崎フロンターレに入団し9年間プレー

 歴史に残る死闘の末に、アルゼンチンのFWリオネル・メッシ(35、パリ・サンジェルマン)が悲願のW杯を夜空へ掲げた余韻が残っていた19日午後。カタール大会で日本の最終ラインの一角を担い、ベスト16進出に貢献した谷口の退団が川崎から発表された。
 クラブの公式ウェブサイト上でファン・サポーターへ、そして一斉メールに添付されたリリースでメディアへ伝えられた谷口の退団。川崎側は「海外クラブへの移籍を前提とした手続き移行のため」と、大黒柱の電撃退団に至った理由を説明している。


 熊本県の強豪・大津高から筑波大をへて2014シーズンに川崎へ加入した谷口は、ルーキーイヤーからセンターバックの定位置を獲得。9年目を迎えた今シーズンを含めてJ1リーグ戦ですべて30試合以上に出場するなど、通算289試合でピッチに立ってきた。

 その過程で2017シーズンの悲願の初優勝と2018シーズンの連覇をともに全34試合、トータル3060分のフルタイム出場で支えた。さらに2020シーズンからはキャプテンに就任。精神的な支柱も担いながら、昨シーズンまでの2度目の連覇をけん引した。

 代役の効かない存在となった谷口と川崎の契約は、今シーズン限りで満了を迎える。当然ながら川崎側は早い段階から、契約延長へ向けた話し合いの場を設けてきた。谷口自身も後ろ髪を引かれる思いがあったのだろう。川崎を通して発表したコメントで、谷口は「たくさん悩み、今回の決断になりました」と冒頭で綴った上で、川崎での9年間へ感謝の思いをまず示した。

「フロンターレに加入し、たくさんの喜怒哀楽をサポーターの皆さん、フロンターレに関わる全ての皆さんと共有してきました。この体験、経験は私にとって何事にも変えることのできない素晴らしいものとなりました。強いフロンターレをみんなで作りあげていくこと、ワールドカップでプレーすることは達成できました」(原文ママ、以下同じ)

 タイトルにあと一歩手が届かず、一時はシルバーコレクターと揶揄された川崎は2017シーズン以降の5年間で6つのタイトルを獲得。一方で昨年まで「5」だった谷口の代表での出場試合数は、今年だけで「11」に激増。カタールW杯ではスペインとのグループステージ最終戦、クロアチアとの決勝トーナメント1回戦で、3バックの右として計210分にフル出場した。

 ヨーロッパ組とより多くの時間を共有した代表での濃密な日々が、そして世界を目の当たりにしたW杯での激闘が、ベテランの域に達しつつある谷口に新たな目標を抱かせたのか。コメントで「まだまだサッカー選手として、成長できる可能性はあると感じました」と綴った谷口は、32歳になるシーズンで初めて海外に挑む理由を次のように説明した。

「これからもフロンターレで自分自身とチームのレベルアップをしていく選択肢もありましたが、海外の全く違ったサッカー環境に身を置き、サッカー選手として成長したいという想いでチャレンジする決断をさせていただきました。今シーズン、タイトルが一つも取れず、非常に悔しい思いをサポーターのみなさんにさせてしまい、またキャプテンという責任ある立場での決断は非常に申し訳ないと考えています。しかし、残りの自分のサッカー人生の中で、チャレンジをしなかったことの後悔はしたくないと考えました」

 カタール大会の期間中には、開催国カタールの1部にあたるスターズリーグに所属し、歴代2位タイの8度の優勝を誇るアル・ラーヤンへの移籍が報じられた。日本がコスタリカに敗れた第2戦の舞台、アフメド・ビン=アリー・スタジアムを本拠地とする古豪クラブだ。

 W杯イヤーを迎えた谷口は、1月の中国、2月のサウジアラビアとのアジア最終予選で連続フル出場。板倉滉(25、ボルシアMG)とのコンビで、負傷欠場した冨安健洋(24、アーセナル)とキャプテンの吉田麻也(34、シャルケ)の穴を感じさせない存在感を放った。

 国内組だけの編成で臨んだ7月のEAFF E-1サッカー選手権ではキャプテンに指名され、森保一監督(54)にとって初タイトルとなる日本の優勝に貢献。今シーズンを含めてJ1のベストイレブンを4度受賞した川崎での個人タイトルも、評価に値する対象となったのだろう。

 海外へ移籍する上で年齢は大きなウエートを占める。

 特にヨーロッパのクラブは特別な選手を除いて、年齢を重視する傾向が強い。日本の「10番」を背負ってブラジル、ロシアと2大会連続でW杯に出場したMF香川真司(33、シントトロイデン)は30歳をすぎた2019年の夏に、新天地がなかなか決まらなかった自身の境遇をこんな言葉を介して表現している。

「やはり30歳になると、ヨーロッパでは特にシビアにとらえられる。年齢のことも含めて、いままでに経験したことのない、いろいろな現実を見せられました」

 今大会でいえば、3位に入ったクロアチアの20歳のセンターバック、ヨシュコ・グバルディオル(ライプツィヒ)の争奪戦がヨーロッパのビッグクラブの間ですでに繰り広げられている。イギリス紙の『The Sun』はチェルシーに加えて、マンチェスター・シティが移籍金1億1000万ポンド(約183億円)を用意して争奪戦に加わると報じている。

 年齢の壁は、谷口自身もある意味で覚悟していたはずだ。そのなかで届いたアル・ラーヤンからのオファーが、谷口のなかで頭をもたげていた、サッカー選手である以上は成長を求めてチャレンジしたい、という思いをさらに強めたのは自然な流れといっていい。

 川崎への愛着との間で揺れた末にチャレンジを選んだ谷口の強い意思を、川崎側も退団という形を介して最終的に尊重した。所属クラブのない「フリー移籍」となれば、新天地となるクラブが移籍金を支払う必要がなくなり、交渉はよりスムーズに進むからだ。

 9シーズン所属した川崎と袂を分かち合った谷口はコメントの最後で、今後への不退転の決意とこれからも愛してやまない古巣へのエールを綴っている。

「私は新しいチャレンジに進みますが、私の中ではフロンターレへの思いは変わりません。日々成長するフロンターレを願っていますし、タイトルの獲得を願っています。私自身もフロンターレと共に成長していく姿を、応援していただいた皆さんに見せていけるように努力していきたい」

 川崎側も谷口の決意は変わらないと覚悟していたのか。東京五輪世代でもある柏レイソルのDF大南拓磨(25)を、今月9日に完全移籍で獲得した。谷口の離脱に備えた補強といってもいい。そして、大南の加入から10日後に発表された谷口の退団が、海外移籍を一気に加速させる。

 カタールの移籍期間は年明けの1月にスタートする。報道通りならばほとんど時間を置かずに、31歳にして心技体のすべてで円熟期を迎え、国内屈指のセンターバックの座を築いた谷口が、言葉も文化も風習もすべて異なる新天地にあえて飛び込んで新たな挑戦をスタートさせる。
(文責・藤江直人/スポーツライター)

(出典:RONSPO)       
(出典  @kengo19801031)

「また会おう」中村憲剛、海外挑戦の谷口彰悟との2ショット公開にファン感涙「泣いちゃう」「2人とも目真っ赤」


「海外の環境に身を置き、選手として成長したい」

 後輩と“約束”した。

 元日本代表MFの中村憲剛氏が12月19日、ツイッターを更新。かつて川崎フロンターレで共闘した谷口彰悟との2ショットを公開した。          

 同日、川崎は谷口の退団を発表。31歳DFは、海外クラブへの移籍を前提とした手続き移行のため、愛すべきクラブを離れることになった。

 カタール・ワールドカップにも出場した谷口は「海外の全く違ったサッカー環境に身を置き、サッカー選手として成長したい」との想いで、新天地を求めることに。

 中村氏は、旅立ちを決意した谷口と肩を組む写真をアップロードし、一言添える。

「また会おう」

 この投稿をチェックしたフォロワーは

「泣かせるな。。。」

「ダメだ。涙腺崩壊」

「泣いちゃう」

「涙が止まりません」

「こんなん泣くって」

「泣かせないで、、、」

「涙出てきた」

「本当だ2人とも目真っ赤だ」

など、しみじみと感じるものがあったようだ。


(出典:SOCCER DIGEST Web)
円熟期を迎えた31歳という年齢での海外挑戦へ!新たなチャレンジ応援します!!

(出典 img.topics.smt.news.goo.ne.jp)


(出典 www.football-zone.net)

「ドリブルを見ても、ちょっと違う」松井大輔が4年後のW杯で期待する21歳のJリーガーは?「なんですぐ海外に行けと言うんだと言われるんですけど…」


フリップには「いないなぁ」

 元日本代表の松井大輔が12月18日、フジテレビの「FIFAワールドカップ DAILY」に出演。4年後のワールドカップで期待する選手を明かした。

 番組内で「4年後の日本代表のスター候補は?」というお題が出ると、フリップには「いないなぁ」と書いた松井。それでもあえて挙げたのが、自身と同じドリブラーだった。

「(清水)エスパルス鈴木唯人は頑張ってほしいな。ドリブルとか見てても、ちょっと違うものを持っている。スルスルと抜けるものがあったりだとか。これからすぐ海外とかに出てもらって……」

 フランスなど海外でのプレー経験が豊富なテクニシャンは、「こういうこと言うと、『なんで松井はすぐ海外に行けと言うんだ』と言われるんですけど、行くことによって経験値がすごく上がるんですよね。そこで世界と戦って、日本代表に還元してもらうのが一番いいと思う」と続けている。

 パリ・オリンピックでは中心選手として期待されている21歳の鈴木。今回の森保ジャパンのメンバーのように、五輪経由で2026年W杯で活躍する姿が見られるか。

(出典:SOCCER DIGEST Web)                

独特なフェイント、柔らかいボールタッチ、パス、スピード!
観てておもしろい!4年後に期待!!


パリ世代のワクワクドリブラー、鈴木唯人 Yuito Suzuki 2021 - YouTube

(出典 Youtube)

鈴木唯人プレー集 -YUITO SUZUKI 2022- - YouTube

(出典 Youtube)

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